2023年 本会議一般質問④
【質問編】先日行った本会議一般質問のやり取りを一部抜粋でご紹介します。
さて、五月から新たなる任期がスタートいたしました。改めて区長の決意をお伺いをしていきたいと思います。 最後に、区の財政運営方針と景気の見通しについて伺います。 さて、新しいことに積極的にチャレンジをしていくとなると、必要になってくるのはやはりお金です。 私が区とやや意見が異なっているのが、財政に対する考え方です。 公の財政運営を家計になぞらえて、節約一辺倒で将来への投資を止めてしまうと、かえって経済の停滞が生じます。 私は現在の区の財政運営はいささか保守的過ぎるなと感じています。 そもそもの歳入の見通しは毎年一〇%程度少なく見積もり過ぎではないでしょうか。そのために、予算も保守的になって、結果として新しい施策を展開する足かせになってはいないでしょうか。例えば、せっかく建て替えた新しい学校の普通教室がすぐ足りなくなってしまうといった問題が発生してしまうのは、人口増も税収増も保守的に見積もり過ぎたことも要因の一つなのではないでしょうか。実際に過去十年間を取ってみても、毎年歳入を増額補正をしています。この際、期初からの見通しを今後は一〇%程度上方修正してみてはいかがでしょうか。 恐らく、今後の景気の見通しも不明瞭であるため、今までどおり保守的にしたいと、こういう回答が返ってくると私も推察します。確かに、ふるさと納税の悪影響も読み切れませんし、景気の見通しに悲観的な発言をした方が、何となく賢そうに見えるというのも事実です。 しかし、日本経済や、文京区の税収に対する私の見通しは依然として強気です。 本日は、景気に先行する日経平均株価が三万三千円を突破をいたしましてバブル後の最高値を三十三年ぶりに更新しています。 政府の五月の月例経済報告では三年三か月ぶりに「緩やかに回復」と基調判断を引き上げています。 それから、六月六日発表の四月分の毎月勤労統計では、現金給与総額の伸びは前年比一・〇%と、ここはちょっととどまってしまいましたが、五月以降は春闘でベア相当部分がプラス二・一%と三十年ぶりの高水準の着地となった結果が徐々に反映され、着実な賃金の伸びが期待されています。 半導体不足による生産の停滞や、なかなか脱コロナができないことによって、一昨年から少し踊り場を迎えていた日本の景気でしたが、足元で次々と明るいニュースが飛び込んできています。 ここで区の現状の景気見通し、それから中長期の歳入の見通しをお示しください。 次に、起債についても伺います。 資金調達について私は、自己の資金、つまり基金の中でやりくりしようと努力をするだけではなくて、せっかくの超低金利状態を利用して、特に大きな資金を必要とする学校建設については可能な限り起債によるものとすべきであると考えています。 昨年、日本はデフレから脱却をいたしました。もうインフレが始まっています。一方で、日本銀行は植田新総裁の下で超緩和政策を維持しています。つまり、実際の金利からインフレ率を引いた実質の金利は大幅にマイナスの領域に入っております。文京区は信用力がありますからほとんどゼロに近い金利でお金を調達できます。つまり、少しでもプラスの効果があるものに投資をする限り、借金をすればするほどもうかるということなんです。また、逆を言えば、幾ら頑張って基金を積み立てたところでインフレの分、どんどんどんどん目減りをしていくということになります。立派な学校施設建設はプラスの効果のある投資の最たるものであると言えると思います。 積極的な起債の活用について区の御見解を伺います。 質問は以上となるんですが、改選後初の登壇となりますので、これまで私をお支えいただきました皆様に感謝の言葉を簡単に述べさせていただきたいと思います。 思い返せば二〇〇三年になります。最年少、二十六歳、元銀行マンと連呼する右も左も分からぬ青年に対して、大きな御期待をお寄せいただきました。爾来(じらい)期数を重ね今回で当選六回となりました。 その間、私の所属政党はその時々の政治状況で大きく揺り動かされてまいりました。 二〇〇三年に初めて公認を頂いた自由党はその年の九月に民主党に合流。その後、二〇〇九年には民主党が中心となり政権交代を成し遂げたものの三年で瓦解。そして、二〇一六年には維新の党が合流し民進党と名称を変更。二〇一七年には衆議院議員の大半が希望の党に移りました。その際、キャラクターが濃過ぎて移籍がかなわなかった方々が立憲民主党を結党。東京では菅直人元首相などがその中心となりました。その間、地方組織は民進党のまま存続をいたしましたが、文京区議会においても一人、また一人と離党し立憲民主党に移っていきました。 なお、彼らが立憲主義なるものを本当に理解しそれに強く共鳴したのか、単に当時妙に政党支持率が高かったからだけなのか、それは今となっては知るすべもありません。 二〇一八年になると民進党は玉木雄一郎氏と大塚耕平氏を共同代表として名前を国民民主党と変更し再出発。文京区議会で二〇一九年の統一地方選挙の段階で残っていたのは私と、山本一仁議員のみとなっていました。 さらに、二〇二〇年には比例当選の国会議員の取扱いをめぐって一旦党が解党。新たなる国民民主党として再出発したのでした。 という具合に、私は一遍も政党を移ったことがないにもかかわらず、国会の事情により幾度も所属政党の名前が変わりました。 保守二大政党制を作るという平成時代の大きな政治テーマに翻弄された歴史であったと言えるでしょう。 私の亡き父は熱心な旧民社党員でもありました。結果として今はその流れをくむ国民民主党に落ち着きました。私は左右の全体主義にくみすることなく現実的な立場で、これからも活動してまいる所存です。 とはいえ、そんな紆余曲折があったにもかかわらず、選挙で六回連続当選させていただきましたのは、お一人お一人の区民の皆様のお陰であります。 昔から知っている御近所の皆さんだったり、小・中学校の同級生やそのお父さんお母さん、親戚のおばちゃんのお茶飲み仲間、それから自分の母親のお友達、大学の先輩。そうした、本当に生活の中で御縁があって、一見政治とは縁遠い方々等を中心にお支えいただいたたまものであると思っています。 改めて深く感謝を申し上げるとともに、頂いた負託の大きさに身が引き締まる思いです。 議員として区民の皆様から様々なお困り事や、御意見をお伺いし、実行に移すこの二十年間の経験は私にとっては本当に大きな財産となりました。 大好きな文京区をもっといい街にすべく、引き続き汗をかいて、しっかりと働いてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。 本日は御清聴、誠にありがとうございました。
(とりあえずこの辺で一回区切ります)
以上、高山泰三
0コメント